食学とは

食学の定義は「人々の健康を促す食生活の知恵」です。

日本、及び世界各地に伝わる民間療法からご家庭に代々伝わる「お婆ちゃんの知恵袋」レシピ、マクロビオティック(英語表記:Macrobiotic)や日本古来の食養学、現代栄養学まで全ての「食の知恵」を指し示すのが「食学」です。

IFCAでは、2005年の食育基本法成立に伴い、消費者志向でのさまざまな角度から調査・研究を行った結果「食育」を普及するためのキーワード、及び食文化・食の理論における知恵・学問・学術の総称を表す言葉として「食学」を定めました。

「食育・食養・食学」の連動性については次の一文に集約されています。

現代社会において食育を推進普及するためには、現代人にはまず食の知識が必要である。
その知識は食養に基づくのが最も適している。

IFCA国際食学協会の創立もこの一文から始まりました。

食育基本法が制定されるまでの経緯としては、1988年(昭和63年)に小泉純一郎氏(元総理)が「厚生省としては食が一番大事なのではないか?」と述べたことに端を発し、1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されました。また、マクロビオティック指導者の久司道夫氏は議員会館で講演を行ったことがあり、国会議員が80人ほど集まったことがあるそうです。その後、平成14年11月21日自民党の政務調査会に「食育調査会」が設置されることになります。目的としては「産地偽装」など食の安全を揺るがす事件が多発したことから、食育で消費者の不安や不信感を取り除くことが当初の目的でした。

その後の翌平成15年に小泉純一郎・総理大臣(当時)の施政方針演説に取り上げられて「食育」という言葉が認知され、食育基本法が制定されることになります。

基本は玄米菜食

一汁一菜ー いちじゅういっさい ー

日本の伝統的な日常の食事形態のひとつとして「一汁一菜」があります。
主食・汁物・惣菜・香の物の4品を揃えた献立のことをいいます。
もともと鎌倉時代に質素倹約を美徳とした禅寺の食事スタイルです。庶民にとってはこの一汁一菜でさえも実は日常の食事としては贅沢なもので、ごはん・汁物・香の物の3 品が通常の食事メニューでした。それでも栄養のバランスが摂れていたのは、白米ではなく、玄米が一般人の主食であったためです。ではなぜ、玄米を主食にすることで粗食といわれる献立でも栄養バランスが保てていたのでしょうか?

なぜ玄米菜食なのか?

「玄米菜食」はIFCAのプログラムの一つにも加えている「食養学」の基本です。

玄米を主食として旬の野菜、穀物を中心にいただく食のスタイルが「玄米菜食」です。白米はお水につけても発芽はしませんが、玄米は芽を吹き出します。生きている食材ということですね。

玄米は栄養素のバランスに優れ、中にはたんぱく質、ビタミン、ミネラルなどの成分がたっぷりと含まれています。栄養学的な視点からいっても「完全(栄養)食」といってもいいくらいです。

またデトックス効果も非常に高く、特に味噌汁を献立に加えることでよりいっそうその効果が高まります。
健康にも美容にもとても良い食のスタイルが、この「玄米菜食」といえるかもしれません。
世界のセレブがこの玄米菜食に夢中になるのも理解できますね。

さて、あとは粗食としての「玄米菜食」から、現代風のオシャレで美味しい「玄米菜食」のいただき方を知ることで、ワンランクアップした食生活を楽しむことができます。

この機会に「玄米菜食」をぜひみなさんのライフスタイルにも取り入れてみて下さい。

世界の食学

近年、化学調味料や加工食品、動物性たんぱく質などを中心とした欧米型の食生活によってもたらされる人々の心身への影響が、世界的にも問題視されています。ハリウッドセレブなどの著名人が「食養学」から派生したマクロビオティックを実践するなど、日本古来の伝統的な食生活は、今、世界でも人気の高い有意義な「食」のあり方といえます。

食学の基本となっている著名人

石塚左玄
福井県出身、戦前の日本の軍医・医師・薬剤師で、玄米・食養の元祖です。 養会をつくり食養学の普及活動を行いました。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱、「体育・智育・才育は即ち食育なり」と食育を提唱し、「食育食養」を国民に普及することに努めました。「栄養」学の考案者である佐伯矩氏が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではないか?と述べ、その言葉で寄付が集まったといいます。しかし、肝心の研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかったそうです。天皇家の御献立は今でも食養学に基づいて考えられているそうです。
桜沢如一
京都生まれの思想家・食文化研究家です。マクロビオティックの提唱者として海外での名前の方が有名で、ジョージ・オーサワ(George Ohsawa)の名の方が知られています。少年期に貧窮の中で職を転々とする中、一時期病気に苦しみ二十歳の頃に食養家・後藤勝次郎を通して石塚左玄の「食養生」に出会い、健康を回復しました。その後は石塚左玄氏の主宰する大日本食養会に参加し、同会三代目会長となり、石塚氏の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念しました。ところが1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設することとなります。戦時中は桜沢氏の妻で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開していたとのことです。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力しました。1950年代には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言しましたがもの別れに終わったという記録があります。同氏の教え子には、無双原理講究所から奥山治氏、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫氏、大森英桜氏、岡田周三氏、菊池富美雄氏らが巣立っています。
貝原益軒
代表書物「養生訓」が江戸時代随一のロングセラーとして有名な江戸時代の本草学者、儒学者です。 筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生れました。 成長後は福岡藩に仕えましたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ7年間の浪人生活を送ることとなったそうです。三代藩主光之に許されたのち、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学びました。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深め、帰藩後は藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされたり、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担いました。幼少のころから読書家で、非常に博識であったそうです。ただ、書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見て手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていました。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体で書かれ、より多くの人が判るよう書いてあるのが特徴です。養生訓は言うなれば現代版「家庭の医学」であり、さらに実際の民間療法全般まで自分が実践したものをわかりやすく解説していたので大変な人気を博しました。
青木昆陽
今では通称「芋神さま」と言われている江戸時代中期の儒学者、蘭学者です。 京都で伊藤東涯に古学について学び、1733年には大岡越前守により吉宗に推挙され 藩諸考(ばんしょこう)を著しました(1735年)。琉球、長崎を経て伝わった甘藷(サツマイモ)を九十九里と、現在の千葉市花見川区幕張で始めて試作に成功した といわれています。そのサツマイモのおかげで当時貧困にあえいでいた農民を飢えから救いました。そのため昆陽は”甘藷先生”と言われていました。最近、青木昆陽という名前の芋焼酎が25~30歳前後の男女に人気を博している、というIFCAでも理由がわかりかねる珍現象が起きています。
水野南北
江戸時代中期の頃の観相学の大家で、当時日本一の観相家といわれ「節食開運説」を唱えた人です。 当時の大坂阿波座(大阪市西区)に生まれましたが幼くして両親を亡くして鍛冶屋をしていた叔父「弥助」夫婦に育てられました。子供の頃(10歳)より盗みや酒を覚えて、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職鍵錠前造りから「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となったそうです。その後刃傷沙汰を繰り返し、18歳頃には酒代欲しさに悪事をはたらき天満の牢屋に入れられました。その牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになりました。出牢後、人相見師から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまったそうです。その後すっかり改心した南北は数々の書物を書きましたが、その中でもベストセラーと言われているのが「南北相法脩身録」という「食は命なり」をテーマに書き上げた書物です。
二木謙三
秋田県生まれで、伝染病を研究し二木式健康法を提唱した医学博士です。 日本の医学界の重鎮であったと同時に、民間療法一般に理解がありました。一時ノーベル医学賞の候補になったとも言われます。國學院大學名誉教授の二木謙一氏の祖父にあたります。20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされましたが、徴兵検査のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝されたことを契機にその翌日から麦飯食を始めました。これにより虚弱な病身から開放されたことから、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという体験により西洋医学の道に進路をとりながら、東洋的な健康法の普及活動に注力しました。
佐伯 矩
日本の医学博士で、栄養学の創始者、栄養学の父と言われています。 医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させました。栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱え、著書「栄養」では栄養学だけでなく食糧政策書籍としての面も持っていました。内務省伝染病研究所の北里柴三郎のもとで細菌学と毒素化学を学んだり、「大根ジアスターゼ」という大根中の消化酵素を発見し学会で発表したり(※これにより大衆が好んで大根を用いるようになりました)夏目漱石の『吾輩は猫である』にも登場したり、多様なエピソードを持つ人です。文部省に「営養」の表記を「栄養」に統一するよう進言し、これより後に完全に定着したことから「栄養学の父」という表現をされています。1941年(昭和16年)旭日中綬章を授与されました。

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